「若さ」を支える大事な要素

過去を持たないということは、やはり「若さ」の特権の一つなのである。と同時に、それは、「若さ」を支える大事な要素でもあろう。過去というものは何かといえば、理論のない雑多な経験だけが混ざりあった、人生の排気ガスである。どんどん捨て去らなければならない。これをいつまでも抱えていれば、人生はすぐ老化して、生活のモーションがストップしてしまう。老化したオトナが、溌らつと若がえるためには、さっさと過去を忘れてしまうことだ。つまらぬ経験なんか振り廻さぬことだ。人間にとって価値のあるものは、「真理」だけだと悟らなければならない。若い人達を見習うことだ。彼等の両腕は、明日への希望だけでいっぱいなのだ。生き生きとした眼、自由でのびのびした肢体には、こだわりのないフレッシュなエネルギーが充満している。彼等には、過去がないからだ。人間だれでも、未知のものには心をひかれる。一種の不安も感じるが、それを恐れず飛び込んで、体験してみたくなる、そんな魅力のあるものだ。未知の世界の探求というものは、私は人生最大の楽しみの一つだと思う。この楽しみをあきらめたり、忘れたりしたら、もうその人間の進歩はストップする。明日がなくなり、昨日までの思い出ばかりを追い廻すようになる。つまり老い込むわけだ。若い世代の人間のくせに、中年男みたいな、ときには八十爺さんのような、消極的で保守的な人間がいる。周囲にぱかり気がねして、コセコセとちぢかんで生きている。なぜ、こんな出来そこないの青年がいるのだろうか。どうして、こんなタイプの人間に育ってしまうのだろうか。もちろん本人自身に大半の原因はあるだろうが、そればかりではないはずだ。社会一般に「若さを去勢された青年」を要求する傾向のあること、これが最大の原因である。つまり「オトナシィ、素直な、自由にできる青年」をのぞむ、世間のオトナ達の身勝手な「コトナカレ主義」が、その底にドス黒く渦巻いているのだ。即日勤務可能アルバイト ←いろいろと見て知識を得よう。


FF041_L

若い人のフレッシュな感覚

終戦直後、浜松でピストン・リングの工場を経営していた頃、こんなことがあった。
ある日、子どもにその月の小遣いをせびられた。しぶしぶ十円やろうとした。
「十円じゃ……」子どもは顔中に不満の色を漂わせて、鼻を鳴らした。
「百円ちようだいよ!」
「ナニッ?百円ッ……」
思わず声が大きくなった。たしか当時の私の月給は、五百円位だった。
子どもの小遣いの要求額は月給の二○%だ。さすがに驚いた。
「そんな無茶をいうな」
「ダッテ、十円じゃ何も買えないモン」

と、フクレッ面で抗議された。話を聞くまでもなく、子どものいい分に無理はなかったのだ。世間の物価が、私の収入とはかかわりなく騰貴していたのである。その後も、こんなトラブルは幾度か繰り返された。「おとうさん、五百円くれ」とか、「来月から、小遣いを千円にベースアップしてくれないか」と、その時どきの社会情勢をなまなましく反映させて、大胆率直にぶつかってきた。不覚にもそのつど私は、肝を冷やしたり、ろうばいして値切ったりした。当時としたら、たしかに五百円、千円といったって、たいした値打ちはありはしなかった。しかし、残念なことに私の頭の中に、一銭でアメ玉が三つも買えたという記憶が巣喰っていたのだ。このために私の社会情勢の判断は邪魔されて、子どもの軽蔑の視線を浴びなければならなかった。このことは、私を痛烈に反省きせた。「過去を持っているオトナというやつは、うんと進歩的であるように見えても、実は古いところが多々ある。若い人の中には八十爺さんみたいな去勢されたような例外もいるが、若い人のフレッシュな感覚には遠く及ばぬものがある」これまでも、私はつとめてこだわりのない自由なものの見方、考え方を大切にしてきた。固定した観念を持つことをいましめ、こだわりのある見方や考え方を自省してきた。それでいながらこの有様だったのだ。←こちらでのサイトではいろいろな情報を取り揃えております。

FF020_L

経験とは何か

ちょうど「真理」という名の料理をつくる材料のようなものである。材料が良くても、いくら豊富でも、それがすぐ料理の善し悪しになりはしない、問題は料理人の技術なのだ。才能のない料理人にかかったら、折角の材料も台なしだ。人は、何かというと経験を評価のスケールにしたがる。ともすれば価値そのものと扱ったりする。これは錯覚である。ただ単に、ある人がある経験を持ったというだけでは、それが価値あることにはなりはしない。経験が尊重されるためには、その人がその経験から、いつ、誰が、どこで考えても納得のできる正しい理論に裏づけられた知識を、学びとっていなければならない。経験そのものは、あくまでそのための材料でしかなく、それをどう料理して、どんな知識にまとめあげたかが大事なのだ。何かを理解するにも、判断するにも、その前提となる知識の質と、量によって、その答は違ってくるはずだ。もし知識の質が、カンを頼った理論のないものだったり、ただ断片的な知識の部品の雑然とした集まりだったら、そこから正確な判断は期待できっこない。間違った解釈をするような知識なんか、かえってない方がよい。知識がなけりや、むしろあるがままに素直に受けとるに違いない。人間の経験なんてものは、とかくこんなものじゃないだろうか。頼りになるものばかりじゃない。人前で得意になって振り廻すことのできる経験など、どれほどあるか疑問だ。なまじっか、つまらぬ経験を持っていたために、それにこだわって判断を誤る例は、反省すると意外に多い。若い人は、この点で実に羨ましい。過去を持たないから、いつも前向きの姿勢でいる。将来へ一歩一歩進みながら、現実を直感的に受けとめ、こだわりのない新鮮な心でありのままに吸収する。そして正しく時代を反映する。←こちらからいろいろな知識を手に入れましょう。


FF038_L

伸びる力

だいたい人生では、同じ時間というものがない。青春という人生へのスタートは、一回きりしか許されない。いくら悔いても、やり直しはきかないのだ。あたりまえのことだが、ここが大事だ。若い人達はこのことを、まず第一に悟らなければならない。貴重な「若さ」を充分に謡歌し、その特権を思う存分に行使して、後悔のない青春時代を過ごすことは、正直にいってむずかしい。なぜかというと世間には、手前勝手で臆病な、そのくせ口先だけ達者で嘘つきな、オトナという人種がたくさんいる。いつの時代でも「若さ」はこの連中の意地悪な視線で、じろじろつめたくとり囲まれ、もみくしやにされる。その上、連中はすぐに眉をひそめ「今の若い者は……」と舌うちをして、恥知らずな説教をもっともらしく押しつけるのだから、たまったものではない。「若さ」は、時間的に失われやすいばかりでなく、こうしたオトナ達の手でゆがめられ、ときには奪い去られることさえある。このことは、明確に歴史が教えている。とかく素晴らしいものは、他人からねたみを買い、美しいものは汚され、伸びる力には抵抗が加わるものだ。しかし「若い芽」は、それでも生え、成長しなければならない。詳しい事は←こちらで見る事が出来ます。

FF029_L

「若さ」

「若さ」なんと魅力のある言葉ではないか。「若い」なんと素晴らしい事実ではないか。なぜかといえば「若さ」は、よりよき将来を、誰にも気がねなしに要求できる特権を持っている。大胆に自分の力を試す機会も、勇気も、限りなく与えられている。これはいくらオトナが強がりをいっても、絶対にどうにもならない、「若いいのち」にだけ許されたものである。だから「若い芽は、大きな巌も割って生える」ことができるのだ。このたくましいエネルギーこそ、若さのすべてであるといえる。若さを説明するのに、本当はくどくどした言葉は必要ない。「若さ」は、そのままズバリすぐれた価値である。「若い」ということは、それだけ偉大な力なのだ。いつの時代でも、オトナは若い人のことをとやかくいい過ぎるキライがある。自分たちの気に入ったものを善とし、気に食わぬものを悪とするなら話は別だが、そうでないなら「若さ」には、もともと善も悪もないはずだ。問題は、本当に若いのか、それとも若くないのか、それだけであると私は思う。しかし「若さ」はまことに失われやすい。うっかりしていれば、それこそ「光陰矢のごとし」である。青春は老いやすいのだ。わかりきったことだが、一度失ったら最後、「若いいのち」はもうとり返しがつかない。←詳細はこちらのサイトから確認してください。

FF033_L